2017/01/25

彼女は、ダイビングスクールを、卒業した、ダイバー、だったのだ。それが、たまたま、私たちのあそんでるところに、来たら、たこが、いたのだ。ダイバーたちは、決して、さかなを、見ても、捕ったら、犯罪者になる。それを、知らない、先生達は、「でかした、でかした」といって、半分いただいたのだ。私達は、ダイバーではない。ただの、遊びだ。それに、腕で、引き摺りあげただけだ。

私の班の、泳力は、一気に、伸びた、もう、怖れるものは、何もない。最後の、遠泳の、先頭を、全員が勤めた。潜水は、遊びによって、いつの間にか、出来ていたのだ。臨海学校の場所は、よく、変わった。岩のない、変化のない、海岸に、当たった、時もあった。
私は、ここは、ハマグリが、居るかもしれないと思い、潜って見た。安のじよう。勘は当たっていた。ちょうど 、子どもたちの、せいのたかさの、あたりに大ハマグリが、列を為していた。1度潜っても、1個しか、とれない。どれも真っ直ぐに並んでいない、潜ったら、それが、分かる。まるで、キノコの、ような、並び方だ。子どもの頃、いつの頃か、石蹴りをして、遊んだ時のような、変形した並び方だった。前日に、そのことを知らせて、潜らせた。おかげで、成功した。波の動きで、ハマグリの一部が、見えてるものである。だから、静かに ,眺めたら、案外、見えるものである。駄目だったら、足で、やたらに、かき混ぜるしかない、しかし、何か、食べれるものがあるということは、楽しいものである。先生は、こんなことも、あるのだから、catchよく遊んで、知識や体験を 蓄えて、いなければ、ならない。一番、先頭に、立って、遊ぶ人で、なくては、ならない。

私は、小さい時、習い事を、1度、したことがある。それというのも、私の字が、半紙に、どうしても、入らなかったからである。母は、何としても、入れるように、したかった。私も、そうなりたいと、思った。書道の先生が、我が家に、やって来た。男のような、顔で、サムライみたいだった。

怖いと思ったから、小さく、なっていた。先生が、見本の、字を、書かれた。私は、きれいだなあと、思った。半紙に、6字を入れるのは、私にとっては、案外、至難であった。入らない訳ではない。最後が、極端に小さくなるのである。それを、上の字と、同じ大きさにしたらいいのである。ところが、これが、出来ないのである。何枚書いても、最初が大きくなって、最後の字が、どうしても、入らないのである。母は、仕舞いには、いつも、怒っていた。「何で、これが、出来んのかいのお」と、嘆いていた。一か月くらい、習ったけど、治らなかった。「仕方ないですねえ」と、先生が、おっしゃって、それで、習い事は、終りとなった。私は、その後も、仕舞いの字が、書かれ、なかった。しかし、、そのくせが、あったから、私は、のちに、書家と、言われるように、なったのだから、皮肉なことである。

私は、ひとつ、思い出すことがある。文化人類学者の金関丈夫先生が、「だいたい、一番弟子とか、言われて、師匠の形を、そっくり、師匠のように、真似ることが出来る者は、師匠を、超えるこは、出来ない」といって、おられたのを、思い出す。

大学の時。私は、展覧会を、して、皆様に、見て貰う貰ったのだ。その時。私の担任の、教育哲学の教授が、私の展示会に、来て、くださった。先生は、私の絵を見ても、何も、言われなかったが、「君、その、題名は、誰が、書いたのだ」と、おっしゃった。「ハイ、ぼくですが」その字、なかなか、いいなあ」とまた、おっしゃった。私は、どう思っていいのか、わからなかったから、「ハイ、ハー」と、返事をしていた。それから、そのことは、忘れていた。

私は、小学校 一年生を担任した時、小学校の時、書道を習ったことが、思い出されて来た。たったの、一っか月だったが、妙に、印象が、残っていた。私は、子どもたちに、書道の、準備をさせた。その時。思い出されたのが、お手本のことだった。丁度、その時、お習字を教えてる、父兄がいた。私は、その父兄に、お手本を、書いてもらった。それが、半紙に、6 個の字だった。私が、書けなかった6個の字だった。しかし、子どもたちは、難なく書いていた。私は、その父兄に、紹介して貰って、書道教室というところに行った。何回か行った。先生が赤まるで直して居られた。

ある時、大きな紙にまるで、私が、書いたような字を書いて、先生に、見せていた人が、いた。私は「あんなの、ありか」と思った。それで、それを、先生に見せていた人にきいた。「あんなの、書いても、 いいのですか」と聞いてみた。「あれは、近代詩文といって、今、流行っている、日展の新しい 部門です」。「あんなの、書いてもいいのでしたなら、私は、毎日でも、書けます」

私は、その後は自分勝手に、自分自身の字を、書きだしたのです。もう、先生の見本は、忘れてしまったのでした。私は、その後は、色んな、書を見て回りました。見ると、「いいなあ」と思ったものは、皆が、近代詩文だと思ったのです。私は、小学校の見本が、書けなかったのが、近代詩文に、丁度いいのだったと思ったのです。私は、子どもたちにも、「自分自身の字を書いていい。」と言ったのです。

私は、骨董やへ、よく行っていました。骨董は、歴史の勉強になったのです。買えば、余計、身についたのです。骨董屋さんから、聞く、歴史は、学校の、歴史よりおもしろかったのです。
私は、いつの日か、骨董やに、なりたいと、おもう程に、なったくらいでした。しかし 、それほどに、魅力あふれる、世界があったからなのです。発掘したものを、触れるという、そこから、人間の起源を 、考えるようになったり、古い物の、美しさの、言うに言われぬ魅力に、まるで、犯されたように、とりつかれて行ったのです。しかし、ここから、人生を学び、美しさや美しいとは、どういうことなのかと言うことを考えることになったのです。古い物と共にあることで、迷わず生きてこれた、導かれてこれた。と思うほど、なのです。

伊万里の傷物でしたら、1個、100円でした。珈琲が、70円でした。ですから、珈琲をやめて、伊万里を買いました。そうやってますといつの間にか、置くところが、なくなりました。裏の空き地に、仕方なく、置いたのです。20代に、家を建てたのですから、お金が、ありません。そんな中だから、よけいに、美しさが、欲しかったのでしょう。

伊万里は、雨が、降っても、大丈夫でした。ですから 、紙のものはやめました。布のものも、やめました。とにかく、出会ったら、買いました。傷物は、かんぴんの一割の値で買えました。傷物でも、美的にはなんら、私には、大丈夫だったのです。むしろ、それが、美しさになったのです。美しいのに、安いので、私は、傷物ばっかし買うと言うことに、なりました。それでも、美しいので、買いました。私は、豊かでした。よく、前の川でさかなをとって食べました。ハエと言うさかなを、唐揚げにして、食べました。とても、美味しかったのでした。美しい、うつわにのせて、贅沢な食事でした。毎日が貧乏でも、本当に、贅沢な気持ちでした。いつか、料理やが、しても、いいなあとも思いました。


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