「幼いころの中國の思い出」

 ふっと思い出したことを、書こうと思います。幼い子供のころの思い出です。幼稚園に行っているころでしょう。まだ、戦争に負けてない頃のことです。
平原のような、果てしない、そんな風景です。きっと、父がそこに何かを植えていて、それをとりに行ったのです。夕方でした。もう、夕陽は沈んだばかりの時でした。そうです、思いだしました。南京豆を取りに行ったのです。ただ、ただ、広い広い大平原の中です。ミレーの晩鐘という絵がありますが、あれよりも広い広い風景です。その雰囲気が似ているのです。それだけを思い出したのです。父は、きっと、そこに、父だけの畑を借りていたのです。父は、そうしたことが、好きなだったのでしょう。きっと、そこまで、電車で通っていたのでしょう。父らしい、父の好きそうな風景です。一本引っ張りだすとずるずるといっぱいなった南京豆が採れるのです。南京豆は生で食べてもおいしいのです。もちろんフライパンで煎ってもまた旨いのです。あんな旨い南京豆は満州でないと採れないのです。私は上海に行くといつもこの煎った南京豆を買っていました。あの旨い南京豆は、日本ではどこにあるのだろうかと思うのです。自分で育てたらと思うのですが、自信がありません。とにかく、あんな旨いものはありません。

 昔の話しです。私がよく上海に通っていたとき、30年から40年前でした。神戸から2泊3日で船で行くのです。まだ、服装が自由ではない時でした。今のことを知りませんから、ずいぶん変わったことだろうと思うのです。昼頃になるとどんぶり鉢に豆腐のようなものを入れて町を走っている人々がありました。ただのひとりや二人ではないのです。それがみんな国民服でしたから、私はもっぱら楽しく眺めていました。私は和平飯店の旧館の方へ、いつも行くものですから、顔を覚えられていました。まだその頃は観光客が居なくて、街並みも静かでした。部屋はがらがらで、私の目的地は福裕路だけでした。その通りだけで市が立っていたのです。 

 タクシーで「フーユーロ」と言えば連れて行ってくれました。10元でした。自転車のタクシーは7元でした。猛烈な混雑の中です。自転車と自転車の間は5センチほどです。それが、接触しないのに驚きました。買って来たら、直ぐ風呂にその骨董を浸けるのです。私も一緒に入って丁寧に洗うのです。美しくなった骨董を並べたまま、午後、もう一度挑戦です。「フーユーロ」は長さ500メートルくらいの幅の両脇に店が並ぶのです。端から端迄歩いたら、帰るのです。99%は偽物の中の本物を探すのです。このスリルが楽しいのです。自信がないと出来ません。私が行くと、それぞれの人が商品を持って私の目の前に突き出してくるのです。偽物は、「プーヨー」です。「要らない」「不要」です。本物はほとんど「アルシー」です。20元です。日本円で200円です。私は直ぐ「イーシー」といいます。100円で半値にしたのです。「オーケー」で交渉成立です。私は左のポケットには10元札ばかり入れています。持って行ったコロの車に入れて10円渡します。次へ進むのです。こうやって戦いが続きます。私の回りには常に30人くらいの商人が品物を持って集まっています。端から端迄歩くのです。私が10メートル進めば30人が10メートル動くのです。それぞれへの対応でエネルギーが果てます。体力が限界です。また、次の日です。私が商売人でしたら、楽しいのでしょうが、しかし、こんなものを買う人はいないでしょう。それに、商品の値段が安過ぎます。ですから、こんなことにエネルギーを使っておれません。辞めると思います。私は、自分が楽しいから行っていたのです。だいたい、100点くらい、小さな物ばかり買うのです。税関で通りすぎるに可能な範囲内の大きさです。機内に持ち込める範囲です。その頃、中国からの美術品は、外に出す事には厳しい時でした。

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