46歳で教職をやめて画家に

そして、教職という仕事を手にしたのです。自分にとっては、長く勤めたと思います。年金が支給される時迄頑張ったのですから。46歳の時、ついに、一人だちしたのです。学校を辞めたのです。自分で自分の思うように生きたかったのです。学校の教師では、不自由があったのです。やはり、存分に暴れられなかったのです。確かに教師は、安定がありました。しかし、それは私にとっては、守りの人生でした。自分を抑える人生でした。自分で自分を小さくさせた人生でした。それは辛いことでした。どこかに、不自由があったのです。どこかに、100パーセントでないものがあったのです。どこかに、心に引っ掛かる部分があったのです。どこかに、義理を果たしてないものがあったのです。自分で満足できないものが残っていたのです。どこかに、神様に嘘をついている気がしてならないものがあったのです。毎日の寝心地が悪かったのです。思いっきり生ききってなかったのです。死んでもいいというほどやってないという思いがあったのです。小学校の時の悔しい思いの義理を果たしてないのです。そうした神様との約束を果たしてない。まだまだ嘘をついている気がしてならなかったのです。だらしがない。情ない。自分に甘い。自分に妥協ばかりしている卑怯者でした。女々しい男でした。結局は何もしないウソつきで終わる卑怯者です。世間に妥協ばかりしている卑怯者です。口先ばかりのおおウソつきです。そんな自分がいつも私の中にありました。それが、やっとの思いで独立したのです。学校を辞めるなんて勿体ないという声も聞きました。それだけの給料を貰えるなら、教職を離れるな、とも聞きました。勤めのない生活は厳しいぞ、とも言われました。一人立ちして、家族を養うなんてことは、そんな甘いものではないんだと諭されました。しかし、だからと言って、自分を曲げることはできないと思いました。一人だちは、いわば、大道芸人見たいなものです。町のどこかに風呂敷をひろげ、そこに自分の作品を並べる。それを覚悟しないといけません。その頃付き合っていた友人にそういう生き方をしている人間がいました。彼は、有楽町駅の側で彼の場所を確保できたのです。皇太子妃も来て下さったと言っていました。彼は全国区を夢見たのです。旅の好きな彼は、あちこちにフアンを作りました。定期的に、全国を回り、市場をひろげました。彼は身体障害者でした。一人では歩くことはできませんでした。しかし各地にフアンがいるので、フアンに助けられて、移動を続けていました。そして、ついに、結婚したのです。まだ、結婚していない時、奈良の私の家に来ました。奥さんの母上に、電話していました。やがて、「佐藤君電話に出て来れよ」というので、出ました。奥さんのお母さんからは、きちがいのように「結婚を止めさせてくれ」と泣き叫ぶように言われました。しかし、彼は結婚しました。そして、子どもが生まれたのです。更に、家を買いました。結婚して子どももいる男には助ける人は減りました。彼は、家のローンに追われました。彼は疲れて、ついに、自殺しました。家は奥さんのものになりました。彼は結婚してからは私の所にも来なくなりました。旅が減りました。一人だちは甘いものではないのです。大道芸人は厳しいのです。私も、いつも、大道芸人を意識していました。私には、まだ、5人の子どもの教育費もありました。車の維持費も馬鹿になりません。家のローンは済んだところでした。家内も一緒に辞めました。子供の為に辞めさせたのです。学校から帰ったら、いつも母さんがいる。そういう生活をさせてやりたかったのです。私はスタートしました。つねに定期的な所得が必要でした。とにかく、どこかに発表できるところがあればやりました。しかし、個人の画商さんの中には、支払いが宛にならないところもありました。経理がいない個人のこちらの弱味でもありました。勿論、個人の画商さんの中には、信頼出来る人も沢山ありました。ですから、個人の画商さんでも40回の展覧会をしてくださった画商さんも何軒もあります。しかし、デパートは確実でした。出来るだけデパートに集中させました。一重に私一人でも出来るからです。そして、全国を目指しました。県に一ヶ所、デパートに画廊のあるところをです。私はいつも、一割は駄目でもいいと思っていたのです。それを計算に入れて、それよりも、展覧会の回数を増やしたのです。やがて、それが定着しました。今年で40回目を記録したデパートもその時からです。一年も休まず続けば、大道芸人でも大したものです。この先どうなるかわかりませんがこのまま続けばと思います。何故40回かというと、40年前に、ある雑誌が私の特集を組んでくれたのです。それが切っ掛けで個展をすることになったのです。それが40回続いてるのです。私はその時、雑誌に肉筆の絵を描いたのです。雑誌が発行している数だけです。それが切っ掛けで私は、いわば機械のように、凄いスピードで絵を描くことを覚えたのです。それが、私の特徴になって世の中に知られたのです。私は、一軒も断ることをしませんでした。絵が凄いスピードで描ける自信を付けた私は、個展が増えても、大丈夫でした。いつでも、どこでも、大きな会場でも、例え、同時に全国で催すことがあっても大丈夫でした。それほど準備ができたのです。私のは、商売で言えば、薄利多売でしょう。沢山描いて安く売る。これを続けたのです。ですから、76歳迄描き続いてるのです。しかし、値段は、一向に上がらないのです。30代の値段とそう変わらないと思います。それが良かったのか、それで良かったのかわかりませんが、ただ、それを、今も続けているのです。もう、私が一人で個展をした時から20年、今は娘と息子がそのまま、引き継いでやってくれています。私はもっぱら、制作のみで、会場には出かけません。しかし、私の制作生活は変わりません。ただただ、描き続けるのみです。ですから、それでも、作品が貯まる一方です。私はそれを楽しんでいます。

作品が、売れなくてたまっているのが嬉しいのです。それを時々眺めるのが楽しいのです。それ以上に意味はないのです。私の作品はそう変わりません。つねに同じようなものです。それでも、どこかに違いが生まれるのです。それが好きなのです。例えば、仏さんを描いたとします。しかし、どこかにちょっとずつ違いが生まれます。それが、嬉しいのです。その時々の顔が生まれるからです。宇宙との出会いです。そして、それは、宇宙の一度の顔です。尊いことです。宇宙に命が生まれるのです。私は仏を描いて宇宙と会うのです。宇宙と話すのです。それが楽しいのです。それが尊いのです。宇宙と共にあると自覚するからです。私は時々、人間で、もし、素晴らしいことがあるとすれば、時々、宇宙と共にあることを楽しむ。ただ、それでいいのではないか、と思うくらいです。透明な自分になったら、それでいいのです。尊いということは宇宙と共にあるからです。宇宙と共にあると思うと大自然も輝きます。同時に全てが光輝いて見えます。そして、いつの間にか宇宙になれるのです。これほど、嬉しいことはありません。これほど尊いことはありません。全てが、同時に輝きわたるのです。こんな宝物を見ないなんて、そして、こんな宝の時間を無駄に過ごすなんて、何という勿体ないことかと思うのです。そして、何よりも、自分が宇宙になっていることに気付かず過ごすことです。実に勿体ないと思います。人の多くは、この宝の時間を見ないで過ごしているのです。宇宙の愛に包まれていることに気付かないまま、過ごしているのです。ですから迷います。囚われます。それでも宇宙は、愛してくださっているのです。申し訳ないことです。勿体ないことです。透明になると宇宙になれます。宇宙になれば、自由になれます。慶びの国へ行けます。悟りの国へ行けます。生きてる内に無限の国へ行けるのです。そして、出来るなら、行かねばならないのです。せっかく、極楽を用意してくださったのです。行くべきです。行って、仏さんと慶びを分かち合うべきです。そうすることが、人間に生まれさせて貰った意味というものです。行くのが、宇宙への義務です。不思議 の国へのパスポートを貰うことです。私はこんなふうに思える自分を尊く思っています。ありがたいと思っています。

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