かつひこ日記NOW

2016/07/02

「神の国に入る」

神の国に入るには、自分から入ろうとしても入れません。神様のお導きによるしかありません。神様の方が入って来てくださるのです。一気に飛び越えなければならない世界があるからです。信じきる、そういうものがいるのです。
勿論、人には、考えがあるでしょうから、一概に、決めつけることはできないでしょうが。どっちにしても、飛躍させられるのです。自己が、断ち切られるのです。自己を捧げるという体験です。自分を消すという体験です。神仏にお任せするということです。神仏の導きに従うと言う事です。神との距離が、一挙に近づくということです。
人それぞれ多少は違いはあるのでしょうが、しかし、もとはと言えば、執着や迷いが取り持つご縁です。迷いや、囚われが、生かされる事によって、導かれるのです。ですから、それは、素晴らしい事と言ってもいいのです。
迷いは神様との出会いのチャンス と言ってもいいのです。嫌って、逃げてはいけないのです。せっかく、人間は天地に愛されて生まれて来たのですから、気づかないままに、迷いや囚われを積み重ねてはならないのです。生きてることは、物が欲しくなったり、自分の思うようにしたくなるものですが、いつまでも思うようにしょうとすると、迷いや苦しみは増え続けるだけです。ですから、その、祝福されている愛に、気がつけば、その欲望というか、その執着が消えるのです。そんな時が訪れて、嬉しい悟りの時が、与えられるのです。そして、神と共にあることが、許されるのです。やがて、それは感謝になります。安心になります。豊かな気持ちになります。自己とか、自我とか言うものが消えて、今まで、自分を苦しめていた事が、嘘のようになくなるのです。人間に選ばれ、生かされてるという事に気づくと感激はどんどん増大して歓喜の世界に至れるのです。その感動は、涙なしにはおれないほど、大きいものです。ですから、人は、命懸けで、求めるのです。求め続けるのです。しかし、これは、一度いただけたからと言って、 長くは続くものではありません。何故なら、生きてる限り執着はすぐに襲って来るものです。ですから、いつも、共にあることを自覚して、生かされていることを感謝していなければなりません。仏陀が、最後に残しました「怠らず努めよ」です。常に、大いなる神と共にあるよう、努めるしかないのです。
生きてる以上、欲望がどうしても起きます。仕方ありません。ですから、欲望を管理しないといけません。執着を管理して、平安な気持ちを取り戻さねばなりません。
安心にまで、高め続けなければなりません。生かされていることに感謝し続けていなければなりません。このことが成就できないと、人の下に行くことは出来ないのです。自分が救われてないと出来ないのです。自分が自由でないと出来ないのです。

「懺悔」

つまり、その為に、反省や、懺悔が必要なのです。これを、繰り返し努めることが必要なのです。生かされている自分を見つけるということが必要なのです。
これが、無事、安心につながるのです。
自分を見つめることは、ですから、ありがたい事です。また新たな感謝がいただけるからです。諸法は無我であるという悟りです。
諸行は無常という悟りです。神様と共にあるという悟りです。これをいつも確認して、自覚して、「怠らず、努めよ」です。
そうすると、また、新たに、安心な、無事の世界に連れ戻してくださいます。この繰返しが必要です。

これを怠らず意識していかねばなりません。反省したり、懺悔したり、自分を見つめることで、また、すぐに、悟りが、与えられます。愛されていることが、自覚できます。神と語れる時が戻ってくれます。
聖書にある「心貧しきもの、天国は汝のものなり」です。つまり、心配事の多いもの、心貧しきものは、神が再三、世話をしてくださるのです。神様の方から来てくださるのです。
ですから、色んな、悩みも苦しみも貴重なのです。それが往生に至りやすい、神様に近い場所にあるということで、ありがたいのです。
キリストも仏陀も言おうとしていることに変わりはありません。
万物の神の願いは、われわれのことを祈って、天国というか、安心の世界に連れて行きたいのです。皆を救いたい、皆を安心させたい、その祈りが、いつも、満ち溢れているのです。
凄い愛です。凄い慈悲です。勿体ない事です。それが、いただけるのですから、こんなありがたい事はありません。悪人で良かったと思います。迷える羊でよかったと思います。
悪人故に、心の貧しきゆえに、迷い、囚われがある故に、真剣にお世話してくださるのです。
迷えるものと共にいてくださるのです。母のように世話をしてくださるのです。ですから、嬉しいことです。
毎日、神と共にあるということほど、安心なものはないのです。
ですから、そのままでいいのです。迷えるままでいいのです。
はっきり言って、神様と共にあると思えた、その瞬間から、もう、覚るなんて、必要ないのです。務めることもいらないのです。
信じて仕舞えば、神様に出会ってしまえるのです。浄土へ行けるのです。

「任せたらいい」

ただ、任せたらいいのです。それだけの事です、難しい行などいらないのです。任せたらいいのです。
お願いしますと、預けたらいいのです。
信じて、それで、いいのです。神様と呼べばいいのです。阿弥陀さまと呼べばいいのです。アーメンといえば、いいのです。祓えたまえ、清めたまえ、といえば、いいのです。
自分に合った言葉でいいのです。
それで、いいのです。信じれば、阿弥陀でも、神様でも、キリストでも、飛んで来てくださいます。赤ん坊が、泣けば、母親は直ぐ飛んで来てくれるのと、全く、一緒です。ですから、唱えればいいのです。
「言葉は神なりき」です。言葉を唱えれば、それだけで、抱いてくださるのです。不思議なものです。信じたらいい。それでいいのです。
安心すると、そこが、もう、天国です。そこが、もう、極楽です。
不思議なものです。極楽をいただくと、今迄、なんでも、ほしがっていたものが、消えていくものです。
そしたら、何だか、つつましく、謙虚になって行くものです。神さんが、そばに居てくださっていると思えたら、それで、満足するからです。
不安がなくなって、人に、何か言われても、おびえることが、無くなるのです。人と比較しなくてよくなるのです。馬鹿にされても、腹が、立たなくなるのです。満足しているからです。不思議な事に、今迄、自分を上に上に見せようとしていたのが、下に下になってもいいと思えるようになるのです。
むしろ、下になっていることが、嬉しく、ありがたくなるのです。人に誉められるよりも、神と共にあることの方が、よくなるのです。生かされていることに感謝するとき、神様が、来てくださるのです。


「誉められなくてもいい」

誉められなくてもいい、神を独り占めしているのが嬉しいのです。
宮沢賢治の「ミナニデクノボウトヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ」です。
むしろ、デクノボウでいたいのです。  皆に、デクノボウと呼ばれている方が、いいのです。人間には、相手にされなくても、いいのです。人間には、馬鹿にされてもいいのです。神さまが相手にしてくれるからです。
むしろ、神さまを独り占めにしておきたいために、デクノボウでいたいのだ。と言ってもいいくらいなのです。  そうやって神と遊んでいたいのです。


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