かつひこ日記NOW

2016/06/27

「悔しい体験」

「悔しいこと」と言うと、今でも、悔しさがよみがえって来るのですが、中学3年の頃だったと思います。私の成績はパッとせず、中の上と言うところに位置していた頃だと思います。そんな時、一度だけ 、成績が廊下に張りだされたのです。あろうことか、国語だったのです。私としては、大の苦手な科目だったのです。私は、魚とりばかりの生活でしたから、本を読むと言うことが全然ありませんでした。小さい時から「お前はでっちだ」と言われていましたから、「でっち」は、勉強はしないでいいのだと思っていました。ですから、本とか、漢字とかいうものには縁がなかったのです。その、大嫌いな国語で、廊下に最高点で張りされたのです。驚いたのは、私本人です。何でだろうと、合点がいきませんでした。私は、漢字が読めません。漢字を見るとアレルギー反応で、拒否反応をおこすのです。それなのに、国語で廊下に張りだされたのです。そんなことがあって間のない頃です。小学校時代からの子で、そんなに、付き合いのない子に、突然襲われたのです。なぜだ。なぜなんだと思ったのです。何も理由がないのです。色々考えてみたのですが、やはり、これというものが、浮かび上がらなかったのです。そんな付き合いなのに襲われたのです。身体は、私より、ずっと大きかったのです。後ろから、羽交い絞めを受けたのです。相手の顔は見えないのです。ただ、ガッチリ、柔道の羽交い絞めです。私は、よく兄と柔道をやっていたものですから分かるのです。入ったら、じたばたしても逃れれません。私が、動くと、相手の腕に力が入るのです。力が入ると呼吸が出来なくなります。そして、気絶の一歩手前まで行くのです。声も出ません。ただ、相手のままです。それが、しつこいのです。何回もいきそうになったのです。いくというのは、気絶するということです。勿論、そのままにしてたら、死にます。おそらく、3回は、気絶しそうになりました。とにかく、逃れれないのです。それが、辛かったのでした。腕を噛むことが、できるのであれば、何とか、逃れれる可能性があるのですが、それも出来ない。悔しかったです。殺されるのかと思ったくらいです。力がないけど、食いちぎれば手はある。そう思ったのですが、それができないのです。もう、まわりはには人影もない。授業が始まったのです。それでも、彼は離して呉れないのです。しかし、やっと離してくれたのです。彼は、走って校舎に向かったのです。私は、しばらく、立ち上がることが出来ませんでした。悔しいと思いました。いつか、復讐したいと思いました。しかし、今はまだやっても、返り討ちになるだろうと思いました。まだまだ、小さくて弱かったのです。我慢するしかないと思ったのです。卒業するまで、彼を見ないようにしていました。後から、考えると、結局、いじめだったのです。その、動機は、私が、引き揚げて来た、その頃からの怨みがあったのだろうと思いました。私が、引き揚げて来た時、世話になったのは、本家でした。その時、本家には、もう1軒、母の姉の家族も住んでいたのです。母の姉の家は近くに新築したので、その間だけの住まいだったのです。私の家は、迷惑だけの、住むところのない流浪の家族です。母が、祖母に会いたいと途中下車したがために、本家に居候になったのです。彼は本家の家の隣に住んでいた子供だったのです。私が、小学校から帰る時、皆で私をいじめた、仲間の一人です。その頃のいじめは、仲間外れとか、草に引っかけさせて転ばせて、それをみて喜ぶくらいのことでした。それくらいのいじめだったのです。母の親戚にお世話になったのですから、やはり、まわりからは、迷惑な存在だったのでしょう。母の兄のところに居候をしても、本来そこにいるつもりはなかったのですが、母の突然の病で仕方なく、居候を決め込んだのですから、まわりには、きっと、嫌がられたはずです。その時の隣の子です。きっと、その頃からの怨みがあったのでしょう。貧乏人の私達が、だんだん、選挙権を取るようにのし上がって来たのです。しゃくにさわる存在になったのです。日頃から、貧乏人めと軽蔑していた奴が、廊下に張りだされたので、腹がたったのでしょう。原因はそれだったと思います。要するに、余所者の台頭を許さないと言うことです。余所者が、廊下に張りだされたり、生意気なことをすることを許さないと言うことです。怨みと言うものは、それほどまでに、しつこいものなのだと思いました。その頃から、目立ってはならないと思いました。その時の子とは、それ以後、一度も会ってはいません。やがて、会わないまま高校へ行きました。彼は、どこに行ったか知りません。それっきりでした。私は高校に行っても、そういった経験がありました。しかし、いじめの体験は忘れません。考えようによっては、そんなことがあったから、人生へのバネになったのかも知れません。自分を見つめ直すチャンスになったのかも知れないのです。そう思ったら、ありがたいことだと思えたのです。人間、いつどんなことが起きるかわかりません。しかし、起きないうちから取り越し苦労をすることもよくありません。どんなことがあっても、それが勉強になるのですから、受けて前進するしかないのです。その通りににどうするのかは自分で自分を判断するしかないのです。しかし、どんなことでも、全てが、自分を育てる教材です。子どもの時から、皆言うに言われぬ悩みを持って来ているのです。それにどう対処するかは本人だけです。考えてみれば、全てが、自分を育てる教えです。いじめはどのみち無くなりません。仕方ありません。気をつけているつもりでも、誰かにとっては、しゃくにさわることがあるのです。しかし、こんな試練を味わえることが、学校というところです。人間はここで鍛えられるのです。私も弱い人間でしたが、いじめられることで育てられたと思いました。
「病気以後」

大学時代、病気した後、以前の私とは、全然違って大学に復帰した時のことです。私は、それまで、絵のことは何も知らなかったのです。同級生にも、先輩にも、同じようには会話ができなかったのです。それが、話しができるようになっていたのです。
私は、それまでは、全然絵が描けませんでした。ですから、先輩達の指導を受けることはあっても、作品展には出品する勇気がなかったのです。何せ、絵を展覧会に出すなんてことは、小学校の時以来一度もなかったからです。
ですから、出品する勇気なんかありません。しかし、大病をして大学に復帰してからの私は凄いことになっていたのです。人間が大変革を起こしていたのです。先輩達も驚いたと思いました。驚くほどの制作ぶりになっていたからです。展覧会に大作を3点も5点も出品するようになっていました。不思議な変化です。ただ、出品しているものは、全然不思議なものだったようです。理解することはできないものだったようです。先輩達は、出品した私の作品を見て困惑していました。具象でもない、しかし、抽象とも言えない。子どもの絵のような、独特の世界のものだったからです。私は、それでいいと思っていました。自分が、嬉しくて、描いてるのですから、それで、いいと思ったのです。ですから、子供のような気持ちになったら、誰でも絵は描けるのだと思いました。
一度は誰でも、幼い時描いた経験があるのですから、子供の時代を思い出して描いたらいいのだと思いました。この事の素晴らしさを信じることができたら、誰でも絵が描けると思ったのです。私はそんなことを大人にも思ってもらえたらと思いました。単純で、幼稚に見えてもいいのです、本当に、それでいいのだと思います。そして、絵が描けないという大人達にもそう思って欲しいと思いました。幼稚だろうが下手だろうが、もし、それが喜べたらいいのです。私は、今でも、それが出来る自分を喜んでいます。それで、見てもらいたかったのです。自分の絵が好きだと思えることほど恵まれたことはありません。母が赤ちゃんの全てを愛するように神様も私の全てを愛してくださっています。私も自分の全てを愛したいのです。


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