かつひこ日記NOW

2016/06/06

「井戸を掘る」

父は何でも、自分でやる人でした。私達を使って、家を建てたり、井戸 を掘ったり、畑を作ったりしました。井戸を掘った時は3日ほど、かかりました。穴を掘ってどんどん下へ進むのです。水が出るまで掘るのです。土が、出るとバケツに入れて、上に上げるのです。下からバケツに土を入れて、上で待ってる私達に渡すのです。それを手を伸ばして受け取るのです。その土を捨て、水も捨てに行くのです。水は溝に捨て、土は一ヶ所に盛って行くのです。やがて、水がどんどん湧きだします。あらかじめ、用意していた石を、回りに積んで行くのです。兄と私と3人で、連携してやるのです。石を運んだり水を汲み出したり、土を捨てたり、井戸を掘る手伝いは大変でした。そのうち井戸らしきものが出来るのです。こんどは、風呂を作るのです。大きな鉄の釜を設置して、コンクリートで、回りを固めるのです。釜の下に焚き口を作って、風呂水の排水管を設置して、裏の溝に引くのです。

「風呂」

さて、風呂ができたのは、嬉しかったのですが、風呂焚きは私の担当になったのです。まだ、小さい子どもですから、風呂に水を入れるのが、容易でなかったのです。ちょっと、背伸びして入れるのです。7部目まで、水を入れることは、私にとっては、至難なことだったのです。何回も何回も少しづつ入れるのですから。子どもの力では、やっとこさの仕事でした。まだまだあります。それは、風呂を焚く時なのです。なかなか、火が付いてくれないのです。何回も、挑戦するのですが、簡単ではありませんでした。小さな、枯れ葉や松葉に、火をつけて、それが、次の薪に火が付いてくれるか、祈ったものです。それくらい難しかったのです。マキが、なくなったら山で拾ってくるのです。これとて大変です。何回も山へ、行かなければなりません。これも苦労でした。要するに、風呂ひとつとっても、容易ではないのです。今では、ボタンだけで風呂が沸かせますが、その頃は、そんな感じだったのです。何回もやってる内に、要領を覚えました。これもいい勉強になりました。

「ドジョウ取り」

私は、ドジョウ取りの専門家だったのです。それほど、ドジョウを毎日取り続けたのです。それは、父がドジョウを毎日食べるからです。父は、私が取って来るドジョウを毎日楽しみにしていました。最低10匹は要るのです。ですから、10匹釣る迄は帰れません。夕日が、落ちて、辺りが暗くなっても釣るのです。かすかに、夕焼けの明りに糸を見るのです。竿の先の糸が、ピンと張る時が、あるのです。その、チャンスを見計らって竿を上げるのです。このタイミングを逃したら、すぐに、ドジョウは針を飲み込むのです。そしたら、ドジョウを解体して内臓の中の針を引っ張り出さねばなりません。すると、時間が浪費するのです。口に引っかけていると簡単に外せれますが、飲み込まれたら最後、時間を失うことになるのです。そうで無くても、時間がもったいないのに、そんなへまをやっていては駄目なのです。ここのところの技が、必要なのです。私は、竿の先を見るだけで、ドジョウが、どのくらい食べ始めているか判断してたのです。その辺が、私は、玄人の域に達してたと思います。そうでないと、父を待たすことになるからです。父の楽しみはドジョウを酒のアテにして、日本酒の熱燗を飲むことだったのです。酒は自分で作っていましたから、いつもあるのです。父としては、疲れて帰ってくると、風呂が沸いていて、熱燗があって、ドジョウが用意されているのが、最高の贅沢だったのです。私は、一生懸命に毎日、怠りなくそれを続けて行ったのです。ドジョウといっても、今頃、スーパーに売っている、あの細い小さなドジョウではないのです。うなぎの小型といってもいいくらいです。油が乗っていて、箸で、身が外せれるくらいの、大きさだったのです。丸で、父は毎日うなぎを酒のアテにしてたということです。私でも、今、そんな、うなぎがあったら、もう1度食べたいと思います。ですから、父は、毎日が機嫌が良かったのです。私に勉強させようとはしませんでした。ただ、兄だけは特別でした。兄には大学に行ってもらいたかったようです。

「料理人」

ドジョウを旨く煮るといっても、ただ、酒と醤油を入れる、それに、ちょっと、唐辛子を入れる。ただ、それだけのことです。その量の調節だけだったのです。おかげで私は自然と料理に興味が湧いて来たのです。父は、私には勉強は期待していなかったのです。ですから、私は料理作りを楽しみました。
そのうち、外の料理にも興味が沸いて来たようです。兄は私のように、釣りには一切興味がありませんでしたし、勉強のために、食事の時も、いっしょに居ませんでした。私は、いつの間にか、ドジョウの旨い煮方も、外の料理も、作るのが好きになったのです。色んな料理に興味が沸いて、色んな料理をおぼえてしまいました。

「鶏の処分」
小学校6年か、中学、1年か、その頃だったと思います。朝、父が、「今夜迄に、鶏一羽、落としとけ」というのです。私の 毎日飼っている、鶏を殺して料理しとけというのです。辛い命令です。当時は、私は「嫌だ」ということが、言えなかったのです。仕方なく、鶏の一番の年寄りを捕まえました。湯を沸かして、包丁で、一挙に、首をはねるのです。私には、その時初めてでしたから、やはり動揺してしまいました。鶏を、一発で、首をはねることが出来なかったのです。父は、それまでに2回ほどやり方を、見せてくれましたが、まだまだでした。私は、最初の呼吸で失敗しました。首を完全にはねることが出来ませんでした。鶏は、首をつけたまま飛んで逃げました。可哀想なことをしてしまったのです。あの時の、鶏の、目が今でも忘れれないのです。20メートルほど飛んで、溝の中に入ってくれました。やっとこさ、捕まえて処分することが出来ました。後は、湯に浸けて羽根をむしって解体して、骨と肉と内蔵と皮とを食べれるように大皿に盛りつけるのです。しかし、あんな命令でも、拒否できなかったのです。父の命令は、絶対だったのです。しかし、そうした辛い命令でも、反抗できなかったから、何でも体験できたのかもしれません。父は私を、本気で、でっちに行かそうと思っていたために、私を自分で生きて行けるように、育てていたように思いました。ですから、それで、鶏の解体も私にさせたのでしょう。それに、農業もよく手伝わしたのでしょう。私は自分の家の尿処理が大嫌いでした。父はよく、肥えたごを担いで、畑に運んでいました。私も教師になった時、家を、借りたところに畑が、付いていましたので、野菜を、作ろうと 耕しました。種まきして、肥料がいるので、自分達の糞尿を使いましたが、家族が少ないので足りません。仕方なく化学肥料を使いましたが、自分達の糞尿を大事に思ったものです。ですから、私の家の糞尿はよく使うものですから、貴重品でした。何時も、空っぽだったような気がしました。おかげで野菜は食べきれない程採れました。魚は、川でハエをとりました。こうしたことも嫌がらず出来たのも、父の教育があったからでしょう。しかし、私は、魚の解体は平気で出来るのですが、4つ足の動物は、したことがありません。しかし、私は、お金がなくても、生活できるという自信みたいなものが出来ました。ですから、27歳でも、家が建ったのでしょう。少しの畑が、あれば、お金はいらないのです。



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