かつひこ日記NOW

2016/06/01

「芸術という言葉」

私は、芸術という言葉は大学に入ってから知った言葉です。大学に入って先輩や友人に教えてもらって、少しづつ覚えたのです。先輩達の指導は凄く親切だったのです。夜を徹して教えてくれました。同級生にひとり、年は2つくらい上だったのが居て、彼は美術の専攻科の学生でしたから、美術のことは、凄く詳しい男でした。彼も又、先輩と同様教えることが好きで、私にやたら語ってくれました。おかげで少しづつ、私は大人になっていく感じがしました。そんな時に結核に倒れたのです。原因は不規則な生活と栄養不足でしょう。それに少し頑張り過ぎたのでしょう。
結核での入院生活はありがたかったのです。やっと、休むことができたのです。そして考える時間をいただいたのです。
そんな時に、同じ入院をしていた友人の東大の学生が、突喀血して死んだのです。

「父母のこと」

私はそれまで、劣等感の固まりのような人生だったのです。それは、多分、引き揚げ者ということも、関係があったと思うのです。私は日本へ引き揚げるまでは、劣等感というものを感じたことはなかったのです。しかし、日本へ帰って、小学校へ入っていじめを受けた時以来、劣等感というものが、生まれたのです。それに、満州では、あれだけ、伸び伸びと生活していた父が、母の里へ帰って来て、それも、母の里に世話にならなければならなかったということも、関係してたと思います。父は、長男で、育った人ですが、母の里に迷惑を、掛けているということで、随分、辛い思いをしていました。それが、私にも影響していたと思います。父の里の辺りでは、父の家は、その地方で、校長をしてたと言うのですから、裕福な家だったのでしょう。
ですから、まわりに、ちやほやされて、お坊っちゃまで育った人らしいのです。父の方の祖父も、母の方の祖父も、両家とも、釣り合った家柄だったように思います。

父母から直接、聞いたのではなかったと思いますが、とにかく、父の里は、「隠居」という屋号でした。きっと、その辺では、いい家柄だったのでしょう。屋号が示すように文化の香りがする家だったのだと思います。母の方は、矢萩という屋号でした。その辺の荘園を、拓いた家だったようです。母の兄は村長でしたし、村では、分限者だったと思います。その両家の見合いですから、お互いに、釣り合いのとれた、家柄だったのだと思います。ただ、父の母は早く亡くなって、その後、後妻さんが来たということです。とにかく、父母は、私達、子どもには、一切昔の話はしなかったのですが、ただ、父は引き揚げて帰って来ても、長い間、自分の里には帰りませんでしたから、何か言うに言われぬものがあったのでしょう。引き揚げの時、普通なら、まず一番に、長男ですから、堂々と里に帰っていいはずです。それを北海道の炭坑に行くと言って、北海道迄の切符を買ったのですから。何か、私達子どもには、知らせたくない、何かがあったのでしょう。そういうことの深い事情は、私達子どもには何もしゃべらなかったのです。とにかく、父は、最初は土方をして現金を得ていました。毎日、村人達と、どこかで肉体労働をしていたのです。帰ってくると「疲れた」と言って、よく私達に肩や腰を揉ませていました。私達の力が、強くないものですから、よく、父の身体の上に乗って、足の裏や腰の上を歩くようにして、やっていたように思います。そんな、仕事しか、なかったでしょう。父から、してみれば、母の里で居候をしてのことですから、肩身が狭かったでしょう。愚痴が出るのも、無理からぬことだったのです。そうした、愚痴も子供ごころに反映してたのでしょう。そうしたことが、私の劣等感にも関係してたと思います。母が長い病だったので、もう北海道を諦めた父は、それからしばらくして村の引き揚げ者達と集まって、縄をなう工場を作ったのです。

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